何かを勝手につなげてしまう(のが快感)
『刑事司法とジェンダー』と
↑どうでもいいがこの書影、すごい変型版の本に見えるので良くないと思う(ふつうの四六ソフトです。表1のテキストが横書きなだけ)
『超嗅覚探偵NEZ』3巻(完結巻)と
NHKスペシャル「未解決事件 File.05 ロッキード事件」第1部・第2部
をほぼ同時に全力で楽しんだ結果、ちょっとわかったことがあるので書く。
警察と検察は、事件の捜査において公判維持を究極の目的として動く。再犯防止も被害者保護も、公判維持に比べたら副次的なものに過ぎない。たとえば捜査の過程で、再犯の防止に決定的な役割を果たすような新たな知見が得られるチャンスがあったとしても、警察や検察は追求しない。裁判は先例主義で、先例の積み重ねで秩序をつくっている。その秩序や論理を覆すものは(たとえ再犯防止や被害者保護に資する建設的なものであったとしても)裁判所に受け入れてもらえないからだ。
ここまでは事実としてわかった。たぶん本質や、関係者の実感からずれてないと思う。
ここからは推論。
1. 新たな発見を是とし、目的とし、アウトプットするのは研究者の領分であって、現場者(研究者に対応する言葉がないのでつくってみた。教育学者が研究者としたら教諭は現場者)にはそれが許される範囲が非常に狭いのかもしれない。だとしたら研究の成果を積極的に理解して取り入れ、現場の改善につなげる役割を現場者だけに負わせるのは酷だ。研究者と現場者を接続する接続者になりうるのは誰か、どのように接続者を機能させるかを考えるべきなのではないか。
2. 警察も検察も、公判維持を最大の目的として動いているが、それを疑問に思っていないわけではない。それが再犯防止や被害者保護から遠い仕事であることはわかっていて、でも社会の乱雑さを「ちょっと片付ける」役割を果たしていることもわかっている。使うべき掃除道具をものすごく限定されて掃除させられてるようなもの。だから、再犯防止や被害者保護を優先できていないことを責めてもクリティカルヒットにはならない。われわれも、彼らに通じる言葉を持たなければならない。
そして1.と2.のどちらにも、出版社はかかわっていけると思う。
本を読む、マンガを読む、テレビを見る。どんなにすぐれた作品でも、手に取るときの目的は暇つぶし。でも、偶然何かを同時に読んだり見たりすると頭の中で発火して何かが起こることがある。これはスゴイ快感なんだけど、結構な確率で起こりますよ。なんと手軽な快楽か。
人生に文学を取り入れるといいって言ってる人がいるみたいですね。不用意にアニメをディスって怒られてるみたいですね。その人は、わたしに何かを教えることはできないと思う。わたしはもう知ってるから。みんな、その人よりたくさんのことを知ってると思う。その人が知らないだけだ。