知ってるだけじゃダメです

ぜんぜん知らなかったことってあんまりない。が、「こんなに○○だったとは」「意外に○○じゃな」とは毎日思ってる。

だけの人

この本を読んでいる。

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目次

 プロローグ(石埼 学)
第1章 ユートピアと人権―従来の人権論の意義と限界(石埼 学)
第2章 人権教育再考―権利を学ぶこと・共同性を回復すること(阿久澤麻理子)
第3章 セクシュアリティと人権―「沈黙する主体」と「沈黙の権力」(志田陽子)
第4章 家族と人権―「家族」神話からの解放(若尾典子)
第5章 スティグマと人権―精神保健福祉法批判(石埼 学)
第6章 「原理論の語り」と人権―フィンランドの無住居者政策(遠藤美奈)
第7章 ヘイトクライムと人権―いまそこにある民族差別(金 尚均)
第8章 記憶の記録化と人権―各々の世界の中心からみえるさまざまな憲法観を考えるために(榎澤幸広)
第9章 「語り」をめぐる権力と人権―被差別部落女性と発話の位置の政治(熊本理抄)
エピローグ 人権・その根源を問う(遠藤比呂通)

 各章で検討の対象になっている人びとが、どのように権利を奪われてきたかはある程度知られていると思う。この本はさらに、彼らがどのように黙らされてきたかを語る。どのように、人権を求めること自体を封じられてきたか。

わたしは個別の問題について語るべき知識を持っているわけではないが、第6章を読み終えた時点で全体像が見えてきた気がするのでメモしておく。

フィンランドにはホームレスの人はいない

第6章には、フィンランドが何年にもわたる社会施策でどうやって「ホームレスの人」の人数を減らしたかが書かれている。その施策ひとつひとつももちろん興味深いのだが、わたしがまず蒙を啓かれたのは次に挙げる箇所だ。

フィンランドで日本にいう野宿者問題が語られるとき、「ホームレス」にあたる言葉(koditon。直訳すれば「家なし」)は使われない。1960年代まではこの語も使われていたが、70年代には行政によって意図的に、「住居なし」(芬:asunnoton 英:houseless。以下、無住居者)という語に切り換えられていった。

その理由には、「住居を持たない人びとに一定の人格的属性を付着させる定義から離れるのが望ましい」ことがまずあるという。「ホーム」のない人、「一定の生の背景を欠く、社会から切り離された根無しの人びと」という「人格的属性」をふくむことばをやめて、単に「住居のない人」と考える。ことばから、まずそうしていく。

単に住居のない人には、その人が入れる住居があればいい。その後政策は、アルコールや薬物、未就労などの問題を解決した人が、ステップアップの結果として住居を手に入れる「階段モデル」を捨てて、ひとまずすべての人に、自分の名前が書かれたドア(=住居)を提供し、さらにサポートが必要な人にはサポートをするという「ハウジング・ファースト」まで発展していく。

「ホームレス」じゃなくて「住居のない人」。住居がない「だけの人」か。それはおもしろいな、とわたしは思った。

たとえばわたし

たとえばわたしは、結婚している。小さい子どもがいる。女である。働いている。太っている。

わたしがどんな人間か、いままで何をしてきたか、この情報で輪郭がえがけるだろうか。

えがかない方がいいと思う。

わたしは結婚している「だけの人」である。なぜ結婚しているか、結婚によって何を得ているか、何を失っているか、これだけではわからないと思う。

わたしは小さい子どもがいる「だけの人」である。その子どもがなぜいるのか、いるからどうなのか、これだけではわからないと思う。

わたしは女である「だけの人」である。これだけでは何もわからないと思う。

わたしは働いている「だけの人」である。何時から何時までどんな仕事をしているか、条件に満足しているか、その仕事は楽しいのかつらいのか、これだけではわからないと思う。

わたしは太っている「だけの人」である。標準より体重が重く、体が大きく見えると思う。なぜ太っているのか、どんな人柄なのか、太っていることを自分でどう思っているのか、これだけではわからないと思う。

ていうか、わかられたくない。

「だけの人」の前につくなにかを属性と呼ぼう。わたしについて並べた以上の属性は事実だが、その属性を持っている→ということは→こう考えているはずだ、これを持っているはずだ、こういう過去があるはずだ、という発展を一つとしてしてほしくない。女だ→ということは→こうなはずだ、と一つも展開してほしくない。その展開が、わたしに対して好意的な動機からのものであっても、絶対にしてほしくない。

また、その属性を持っている→ということは→こう扱ってもいいんだ、あるいはこう扱うべきだ、と思われ、そのように扱われるのはいやだ。それが一見よいことであってもいやだ。

これらの矢印に既製の名札をつけよう。「ゲスの勘繰り」。

ゲスの勘繰りを撲滅すればそれで済むんじゃないだろうか

たとえばシングルマザーの人は、配偶者を持たずに子どもを育てている「だけの人」である、と考えてみよう。鼻の穴がでかい人が、鼻の穴がでかい「だけの人」なのと同じ。

家計の支持者および育児を含む家事の担当者を一人欠いているわけだから、なんだかの助けを必要とする可能性があるだろう。ここまではゲスの勘繰りじゃなく、当然の推論。しかし、目の前の人がその「助け」を求めているとは限らない。「だけの人」だから。

シングルマザーであるという現状からは、どういう事情でシングルマザーになったのかはわからない。いまそういう現状にある「だけの人」。

かわいそうじゃなくていいし、一生懸命でなくてもいい。配偶者のいない理由が未婚でも離別でも死別でもいい。ただシングルマザーな「だけの人」に対して、シングルマザーであるがゆえの何かを(よい心根や、逆に後ろ暗い事情とかも)期待しなくていい。

そしたらシングルマザーの人は、自分はシングルマザーな「だけの人」だと思って、必要な援助を求めやすくなると思う。黙らされなくなると思う。わたし鼻の穴がでかいから、人にどう思われてもしかたがない、とは思わないだろう。それと同じ。

その結果生活保護を得たとする。そしたらその人は、シングルマザーで生活保護を受けている「だけの人」になるだけ。なんなら、鼻の穴がでかくてシングルマザーで生活保護を受けている「だけの人」。お? 違和感感じましたか? 鼻の穴とシングルマザーちがうやろ、と思いましたか? その違和感こそを「ゲスの勘繰り」と名付けてはどうか。で、恥じて、いずれはなくしちゃえばいい。

これがたとえばセックスワーカーの人でも、外国籍の人でも、「だけの人」って考えてはいけない理由が思いつかない。わたしにとっても、どんな相手にとっても、「だけの人」って思って思われることが、気持ちよく生きる方法として有効なんじゃないかと思う。逆に、ゲスの勘繰りが人権抑圧諸悪の根源な気がしてきた。

ジャストアイデアです

ただし、これは冒頭に掲げた『沈黙する人権』を読んだことでどうしても書きたくなっただけの、わたしにとってのいいアイデアにすぎない。このアイデアを持って、ネットに流れる論争や、国の政策を裏付ける言葉なんかをしばらく読んでみようとおもいます。おわり。